GPLの問題点

Kazuho Oku氏の主張がなぜ理解されないのか不思議だ。

私の理解するところによると、こういうことだ。

世の中には、GPLを良く理解しないまま自分のソフトウェアをGPLにしてしまう、あるいはしてしまった人がいる。その人達に、GPL*1の危険性に対する、つまり、FSFの好きなように自分のソフトウェアのライセンスを変えられてしまう -- 例えば、今日、FSFがGPL3はBSDと同じですと言ったら、今日からBSDで自分のソフトウェアが配布されてしまう -- ことへの、注意を喚起しておくべきだ。*2

反論を検討しよう。

GPLのその性質を理解していない人などいない

これは聞いて回らないとわからないことだが、世の中そんなに注意深い人ばかりではないと考えるのが自然だと私は思う。GPLは雑誌や記事で沢山宣伝されて、その殆どが

私は「ソフトウェアの自由を擁護するため権利を積極的に行使すること(copyleft)」にあるのだと思っていました。っていうか、今でもそう思ってます。
FSF は、どうあるべきなのか : Kazuho Oku's Weblog (跡地)のまつもとさんのコメント

ということについてしか述べていない。「契約」としての観点からは重要な、自分のソフトウェアのライセンス決定を他人に預ける、ということについて言及したものは稀である*3。いずれにせよ、そのような注意の足りない人がいる可能性は否定できない。したがって、そんな人はいないと思うという反論によって、注意を喚起すべきだという主張が無効になることはない。

変えられてもいい

それならそもそもGPLで配布しないだろうし、GPL2でも配布できるのだから問題ないという主張は想像力を欠いている。BSDパブリックドメインにせずにGPLにしているのはなぜか?修正後の権利を制限*4するためだ。GPL3がBSDになれば、その制限するという目的は達成できない。FSFの一存でそうなる可能性があるわけだ。あるいは、もっと奇妙なライセンスになることだってあり得る。作者の名前を残す必要が無くなるとか、大嫌いな特定の企業だけは何の制限も受けない(将来のメンバーがFSFを大金と引き換えに売却することにしたのだ)とかね。後者の場合、その時までに書いたコードはその企業だけには好きなように利用されるわけだ。折角GPLで開発して来たのに何の意味もない。それなら最初からパブリックドメインにしていたほうがましだっただろう。

FSFは信頼できる。私や君の悪いようにはしないはずだ

これには反論しようがない。宗教だから。何年の実績があるし、個人的に教組を知っていて教組様は偉い人だ、だから良く知らずに入信してしまった人は「何も知らないままでいい」、というのは他人から見れば宗教にすぎない*5。そして信じるのは自由だ。しかし、信者でない人が教団が信じられないと述べた時に、「信者でないからそんな疑惑を抱くのだ」と言うのは意味のないことだ。疑いを述べる前にまず教団にコンタクトをとれ、というのは一理あるが、それは注意を喚起すべきであるという主張の正しさとは無関係であるし、コンタクトをとらなければ主張の実行の意味がなくなるわけでもない(実行効率に影響を及ぼす可能性があるだけだ)。*6

別の話

利用者にとっては、ソフトウェアは、バイナリが手元にあろうが無かろうが機能が利用できさえすればいいのだが、ネットワーク越しにサービスを提供すればソースコードを開示する必要がないというのはそれでいいのだろうか。という有名な問題点にGPLnで対処がされることはあるだろうか。

*1:any later versionを取り除かない

*2:続きは「理解されない」部分ではないので略す

*3:というより見た記憶がないが、GPLの詳しい解説記事のようなものには書いてあっただろうという意味で稀とした。例えば、はてなキーワードにも、そこからリンクが張られる用語辞典二つにもそんな記述はない。私は最初に自分で読んだ時に奇妙なライセンスだと思った記憶がある。

*4:FSFのレトリックは無視して言うが

*5:念のために書いておくが、個人的には、FSFの理念は素晴らしいと思っている。FSFが宗教だと言うことによって(宗教のコノーテーションのうちマイナスのものを利用して)誰かやFSFを貶めるようなつもりは全く無い。「FSFは信頼できる」という言説の構造が宗教だと指摘しているだけである。実際にFSFが私にとって信頼できるがどうかは全く別の問題だし、信頼できないと思っているわけでもない。

*6:個人的には、「信頼」に依存しようというのは「契約」しようという立場とは対極にあるのだから、奇妙なライセンスだと思う