トートロジー
要するに内田教授はトートロジー(同語反復)の話をしているんだけれども、教授の言うとおり、世の中の文系の人っていうのは、自分の論じている内容のトートロジーに意外なほど鈍感だよね。という自分も文系なんだが。正直、これは学生に限らないな、と最近思う。
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それはトートロジーではない。
例1
だから、この種のテクストでは「女性性とは何かが定義不能であるということは、女性自身にもよく理解されていない」というようなあっと驚く論点先取の文章に出会うことだって珍しくない。
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一体どこが論点先取なのだろう。
この文章は次の二つのことを主張している。
- 「女性性」は定義不能である。
- それが「女性」自身にも理解されていない。
「女性性」は定義不能だというのだから、「「女性」が持つ性質」と定義されたりはしないということが分かっていて、なお論点先取だと指摘しているのだろうか?
例2
昔、バタイユとサルトルの比較論を書いた院生がいた。
サルトルはバタイユの「非知」という概念がついに理解できなかったというような話であった。
だが、「サルトルはついに『見える、見えない』という光学的な比喩の枠組みから出ることができなかった。ここがサルトル哲学の盲点である」という結論にはびっくりした。
困るでしょ?
え、分からない?
あ、そうですか。
そういう人がたくさんいるから、世の中案外平和なのかもしれないね。
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私は全然困らない。わからない。
例えば、「イラクに展開している第24空挺旅団はM1-A9戦車が配備されている三つの旅団の内の一つである」という文章を読めば、
- イラクと呼ばれる地域、第24空挺旅団、M1-A9戦車 というものが存在する。
- M1-A9戦車 が配備されている旅団は三つある
- ...
と非常にたくさんのことがわかる。
しかし、数学ではこうはいかない。
「a, b を x^2 = - 4 の二実数解とすると、 a は x^2 = - 3 の解である」
という命題は正しいのである。もちろん、この文章からx^2 = - 3の実数解の存在を読み取ったりしてはいけない。
理系である私は、「aはbである」という文章は数学以外の使用ではaとbが存在するという前提があるということを意識して文章を読むのである。
「サルトルはついに『見える、見えない』という光学的な比喩の枠組みから出ることができなかった。ここがサルトル哲学の盲点である」
を読めば、私には
- サルトル哲学には盲点がある
- 『見える、見えない』という光学的な比喩の枠組みから出なければ理解できないものがある
ということがわかり、「ここが」の解釈が文脈がないのでよくわからないが、
- サルトル哲学の盲点とは「『見える、見えない』という光学的な比喩の枠組みから出なければ理解できないもの」である。
- サルトルの盲点は「『見える、見えない』という光学的な比喩の枠組みから出なければ理解できないものがあると気づかなかったこと」である。
のどちらかの解釈をするだろう。
もちろん、上の解釈は、
- サルトル哲学の盲点とは「『食べられる、食べられない』というグルメ的比喩の枠組みから出なければ理解できないもの」である。
とは別のことを言っている。
…とうだうだと書いたが:-)、おそらくそのようなことではなくて、実質的に
と書いてあると思って「困って」いるのだろう*1