「あー、もういいわ。キャンセルする」
そう言って斜め後ろの客は出ていった。店に入る時に見た後ろ姿では、白髪交じりのボサボサ髪、歳の頃は五十ぐらいの男であった。注文してからは一分と経ってない。苦笑しながら給仕の女性が厨房にキャンセルを告げた。
すぐに引き戸の音がして、誰かが入って来た。
「おーい」
この声はさっきの男である。
「鍋焼きうどんはキャンセルでよろしいんですか」
「…」
「さっき鍋焼きうどん注文されましたよね。覚えてらっしゃいませんか?」
「覚えてない」
つい振り返って男を見た。…まだボケそうな歳には見えないのだが。
男は品書きを見始めたようだ。
「おーい、注文できるんか」
「はーい…何にします?」
「…何にしようかな…」
保護者はどこかにいないのだろうか。ややあって
「味噌汁とご飯」
「はい」
辛抱強く対応するものである。
私には男の鍋焼きの直後に注文した親子丼が届いた。しばらくして男の味噌汁ができた。
「これ、キャンセル」
「困ります!」
さすがに、彼女も「きっ」となった。
「あっちの人の方が早く来た。これすぐできるでしょ。キャンセル」
「キャンセルはできません!」
理路整然と説明し始めた。味噌汁は温めるだけではないらしい。
「…私何か間違ったこといってますか?」
反語調でしめる。気の強い人だ。
「じゃあキャンセルはできんのか」
「できません!」
何が起こるかとおもったが…
この男、どうやら待つということができないらしかった。結局諦めて、追加注文すると言ったのだが、三十秒後には気が変わって金を払うといいだし、支払った。食事には手をつけていない。立ち上がって、トイレに行きたいと言い、奥まで行きかけたのだが、彼女に言われて別の店員が案内しようとしたところで
「もういいわ」
出ていったのだった。